-暗窟の箱舟-


 その生き物は、ヒルとナメクジの特徴を混ぜ合わせたような見た目だった。成体となっても大きさは十ミリに至るかどうか、水中を漂うプランクトンを捕食するだけの生物だった。
 彼らは生物としてはとても弱かった。高温にも、低温にも、乾燥にも、pH変化にも、紫外線にも。
 十度ほどの水温の変化で、少しの乾燥で、かすかなpH変化で、わずかな日射で、彼らは死に絶える。
 外敵に対する防衛手段はほんのわずかな電気。瞬間電圧にして八百ボルトにも至ることのあるデンキウナギの千分の一にも満たない。捕食の際に少しは役立つことや、個体間のコミュニケーションには使えても、捕食者を退けることは到底できなかった。
 彼らにとって、この世界に存在するありとあらゆる自然環境が極限の苛酷だった。
 生物進化の中で偶然生まれた失敗作のような、進化の袋小路にはまっていた彼らはしかし、悠久の刻を次の世代へ、次の世代へと受け継ぎ続けていた。
 それは偶然。奇跡ともいうべき偶然によるものだ。
 彼らの住処は限られた。その脆弱さゆえに、限られた環境でしか生きることができなかったためだ。己の生息地を広げようとしたものの、過酷な自然環境に阻まれ、そのほとんどが息絶えた。残ったのは、洞穴をその生息地としたもののみだった。
 安定した水温、日射の届かない暗黒。彼らにとって洞窟という環境は非常に優れた場所であった。
 だが、そんな場所にも天敵はいた。それは魚であり、爬虫類であり、両生類であった。生物として弱く、移動力も低く、そして繁殖力にも乏しい彼らには、通常の生物ならば必定として許容範囲内となる捕食圧だけでも、種の存続に多大な影響を受け、その場から消えていった。そういった意味でも、彼らの進化は間違いだらけのものだったのだろう。
 しかし、たった一つ、広大な世界に一つだけ、彼らが生き残った洞窟があった。閉鎖された環境の中、彼らはその系譜を脈々と継いでいった。
 そんなある日、彼らにとって大きな変化が起きた。
 外敵の侵入一つなかったその地に、入り込んだ者があったのだ。それは遥かいにしえ、彼らがこの洞穴に居着いてから、初めての侵入者だった。
 その侵入者はヒトだった。
 彼らはヒトという存在を知らない。ヒトという生物が誕生するより遥か昔から洞窟という閉じた世界で生き、外界との繋がりを断って幾星霜。ヒトは繁栄し、その行動範囲を広げ、遂には彼らの生息域にまで達したのだ。ヒトという生物と彼らとの、初めての出会いだった。
「これは……地底湖?」
 侵入者は冒険家であり、生物学者でもあった。
 女性であるということが理由としか考えられない不利益を被ったことも一度や二度ではなかった。富や名声が欲しいというわけではない。ただ、正当な評価が欲しかったのだ。
 だからこそ、女性ながらに単独で洞窟内探索を行うことを決め、ここまでやってきた。
 洞窟内の湖というごく閉鎖された空間においては、新種の生物はもちろん、新たな分類群の生物が見つかってもおかしくはない。
 彼女には目の前の景色が、自らの望みを叶えてくれる、奇跡の泉にすら見えた。
「調査は明日からにして、今日は休もうかな」
 日の光は射さないため、時間感覚は失われているものの、厳しい行軍で体力的にも限界が近いことは自覚していた。元より、数日は洞窟内部で野営することを決めていたのだ。
「でも、ちょっとだけ、見るだけ……」
 そう言って、彼女は岸のぎりぎりまで近づくと、観察と採集をはじめる。
 ヒル状のその生物をはじめとして、採集した生物は透明な、観察用のケースへと移されていく。
「凄い……これ、凄い!」
 三十分としないうちに、ケースの中には見たこともない生物ばかりとなっていた。肉眼で観察できるものだけでも、既知のものとは明確に異質なものばかりだ。
 彼女は興奮のままに、野営具を設置すると、翌日への期待を抱き、眠りに落ちた。
 疲労のためか、あるいは喜びのためか、彼女は採集したその生物のフタをロックしていなかった。
 その生物にとって、移動させられることは生命の危機そのものだ。だから彼らは元いた湖へと戻ろうとして、蠢いていく。
 そんな中で、いくらかの個体はその進路を誤る。乾燥による死を確信したその個体は、次代を遺すためにと最後の力を振り絞り、そして手近な水分へと辿り着く。
 傷。絆創膏の粘度の弱まった部分から潜り込み、産卵。それだけで最後の生命力を使い果たしたその個体は死に、その身は溶けて消えていく。
 ヒトの体温は彼らにとって成育限界ぎりぎりの温度ではあったが、彼女が水の浸かっていたことと、就寝中という二つの条件が重なり、辛うじてその生物は生き残った。それでも卵という形で、その生を受けた当初から血中という異質な環境に置かれ、そのほとんどは孵化する前に死滅した。しかし、ほんの数個体だけは生き残り、血管の中を旅し続ける。
 天敵もいない、温度も安定した、更には栄養の溶けているその空間は、彼らにとって楽園とも呼べる場所だった。
 彼女の体内を循環する血流に乗って、流れていく彼らの内、更に一個体がある場所に到達する。
 それは動物の全身を司る中枢――脳。
 無数の偶然に助けられ、そして再び奇跡が起きた。
 流れ着いたその個体は、偶然にも脳へと付着する。ごく微小なそれは、脳の狭間、そしてその内側へと進行していく。それは思考と呼べるものではなかっただろう。本能か、あるいはそれこそ偶然だったのかもしれない。
 本来の生育環境と比べ、圧倒的に優れた栄養条件の下、その個体は急速に、そして異質に、成長を遂げる。
 元々、その生物は脳という組織を持ってはいなかったが、彼らの放電器官は、ヒトの脳細胞のそれによく似ていた。細部の組織はまるで違う。しかし、同じ役割を果たすだけの能を、彼らは持ち備えていた。
 異物であったはずのそれは、脳という組織へと同化していく。脳組織同士がやり取りする電気信号が、その個体へと流れる。
 そのままであれば、その存在は消滅していたことだろう。
 全ては偶然。恐らくは微弱な電気刺激によるものなのだろう。偶然の産物として、その個体は自らが消滅するその寸前、知性を得た。
 生まれた知性――もしくは意思とも呼べるそれは、彼女の脳を借りてその自我を拡大させていき、持ち備えた微弱な放電によってその脳を、身体を、乗っ取っていく。
「……」
 眠りについてから五十時間ほどが経過して、ようやく彼女は眼を覚ます。
 否、その表現は正確ではない。彼女は既に、彼女ではないのだから。丸二日を超える長期の睡眠は、彼女の脳を最適化するために必要な期間だった。それが済んだ今、その身体の元々の持ち主の意思と呼べるものはもうない。
 無数の精子が己という存在を活かすために争うように、それは、ただ一個体で無数の細胞に打ち勝ち、その主導権を手に入れたのだ。
 悪意はない。彼らはただ純粋な、生物としての本能に従うだけだ。
 その身体の元の持ち主が持っていた記憶と知識をもってして、それは自らの存在を自覚する。この肉体の中にあれば、環境は保たれ、栄養にも不足はない。
 満足、と呼んでもいい感情を得つつ、しかしその本能は更なる欲求を覚える。知性を、意思を得ても、その生物の根底は変わらない。
 その存在は、得たばかりの声を持って、その欲求を口にする。
「殖えたい……」
 一言だけを残して、それは動き始めた。





 無数の機械類にその容積の多くを占有されたそこは、その見た目がもたらす印象そのままに、研究のための部屋だった。
 部屋の中にいるのは白衣の女性が二人。
 一方は笑み、もう一方は真剣な眼差しを、それぞれ変えることなく保ち続けている。スタイルや髪形、化粧の有無などといった違いから、一見しての印象こそまるで異なるものの、二人の顔立ちはよく似ていた。
 それもそのはず、彼女らは血を分けた実の姉妹だ。しっかり者の姉、シンディと気楽でお調子者の妹、ジュリア。三つ子の魂百まで、とでも言うべきか、幼い頃に定まったその性格を変えることなく、二人は今に至っていた。好物や趣味、異性の好みも、まるで違う二人だったが、その姉妹仲が悪いかというとそんなことはない。
 今、彼女たちが行なっているのはとある奇妙な生物についての調査である。大きさにして一センチほどの、形だけならばナメクジかヒルのようにも思える、しかし確かに異なる半透明の生き物だった。生物学に対する広い知識を持つ二人であっても、外見だけを見る限りでは何の仲間かさえもわからない。
 しっかり者のシンディだが、無茶をするのもまた彼女の方だった。今回についてもそれに違わず、彼女はなんと一人で、原始林深くの、未だ誰一人として踏み入ったことのない洞窟へと入り、その更に奥深くの湖でこの生物を見つけてきたのだ。
 半月ほど前、彼女は帰ってくるや否や、新発見であろうその生物に対して様々な手段を用いて解析を始めた。ジュリアは姉に言われるがままにその手伝いを続けている。
 姉が何故、この生物に対してそれほどのこだわりを見せるのかはジュリアにはわからなかった。
 新種や新属、あるいは目レベルで新しいものかもしれない、ということであれば、やることは別にある。生物の分子的な解析や生理生態面について研究を始めるにはいささか性急に過ぎた。
 続々と出力されていく解析の結果に目を通し、思案。それがこの半月ほどの間でシンディが行ってきたことのほぼ全てであった。
 現状の結果からだけではわかることは多くない。何を調べるにしても、必要な情報が足りなすぎる。だが、シンディはまるですべてわかっているかのように一人で頷き、そして笑みを浮かべるのだ。
 その笑みを見るたび、ジュリアは背筋にほの寒いものを感じていた。それまでの姉であれば浮かべることのなかった、どこかエロティックさを含んだその笑みに。
「よくわかった」
 ぼそりとそう告げると、シンディの表情が変わる。あるいは、その顔から感情が抜け落ちる。
 その変化にジュリアは今度こそ勘違いではなく、強い恐怖を覚えた。後のことなど何も考えるまでもなく、ただ姉から離れるべきだとそう思ったのだ。
 白衣の裾をなびかせたまま、研究室のドアノブに手を掛けた時、もう一方の手首に強い圧迫感。
「ひっ」
 腕を掴むシンディの瞳には、厳しくも真面目で、それでいて優しい姉の意思はなかった。
 恐怖と共に、ジュリアは一つの事実を思い出す。
先日のことだ、シンディの書きかけのレポートを見た時に、不自然な記述があったのだ。それまでに行った検査だけではわかるはずのない事柄が、多数列挙されていたのだ。
 あの生物は微弱な電気信号によって個体間のコミュニケーションをとっていた。そしてその微弱電流はヒトの体内電気に酷似しているということまではわかっていた。だが、そのレポートには書いてあった。その生物は脳に寄生し、その思考を乗っ取り変質させる寄生生物であると。
 真面目な姉がそんな、妄想めいたことを書くこともあるのかとその時は思ったものだが、もしそれが、事実だったとすれば? その生物が己の生態を調べ、殖えようとしていたのであれば?
 現実味のない推測を、しかし現実の恐怖心が肯定する。
「大丈夫。何も恐いコトなんてないの。それどころか、いろんな悩みから全部解放されてとても良い気持ち」
 真面目ないつもの彼女からは考えられない、淫らな笑みを浮かべ、シンディは誘う。
「だから、ね?」
 近づいてくる。
 叫びを上げそうになった口が、姉の、その姿を持った怪物の唇によって塞がれる。流し込まれる唾液の感覚におぞましさを感じ、身体をよじるも、まるで振り払うことができない。それでも抵抗を続けていると、少しずつ体の自由が利かなくなっていく。
「あ、ぁ……」
 意識が、暗転するかのように、一瞬にして堕ちた。
 五十時間にも及ぶ長い眠りを経て、ジュリアはようやく目を覚ました。眠りにつく前までは絶えることのなかった笑みは失われ、人形を思わせる機械的な無表情のかたちをとっていた。
 その存在はジュリアという人格を上書きしていた。丸二日以上の長い睡眠は、その脳を最適化するために必要だった期間だった。
 唾液を通し、体液中を循環した卵は血中という高い栄養条件下によって急速に成長を遂げ、脳へと辿り着いた幸運な個体が根を張り、同化していった。無数の精子が己という存在を活かすために争うように、それは、ただ一個体で無数の細胞に打ち勝ち、その主導権を手に入れたのだ。
 彼らには知性があった。ヒトの脳の持つ処理能力を借りることで得た高度な知性だ。彼らは自身を知っている。その強みも、そして弱みも。
 ヒトという借体は、その中に入れば環境が保たれ栄養的にも不足のない、非常に理想的な環境だった。だが、一個体の中に限ればその繁栄には天井が見えているのはわかる。故に、彼らはその生息域を広げていく。
 知性を、意思と呼べるものを得ても、その生物の根底は変わらない。
 その存在は、得たばかりの声帯を震わせ、一つの願いを口にする。
「「殖えたい……」」
 求める者は同じ。姉妹だったモノの声が重なる。
 表情のない端正な顔立ちが、まるで表情筋を動かす練習かのように。口の端を上げ、涎が零れ落ちるのを気にすることもなく。己の得た、発声という機能を確かめるように、
「あはっ」
 それは、嗤った。

掌編・その他
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